現在までの道のり

(2023年1月9日更新)

合唱団オラショクラブが誕生したのは2014年の6月です。
言い出しっぺである私奥村泰憲がオーストリアから日本に帰国したのは、2012年のモーツァルトの誕生日1月27日。
そこから約1年後にこの合唱団を作ることを決めました。

遡れば18歳でのモーツァルトの戴冠ミサ曲との出会いが、既に合唱団創設のきっかけになっていたかもしれません。

大学1年生の混声合唱の授業でこの曲が選ばれ、定期演奏会のメインプログラムになりました。
この作品をすぐに好きになったのですが、その理由の一つが歌いやすさでした。
シンプルな音の中に奥行きがあり、30分に満たない時間で多くのテキストが無駄なく音で紡がれている感じがします。
なんとなく既にその頃から、将来自分の合唱団を作る事になればこのような作品を取り上げる団体にしたいなと漠然と思っておりました。

学生生活と並行し、大学1年生の秋からヴォーカルアンサンブル津山というプロの合唱団に所属していたのですが、そこでもモーツァルトの宗教作品が取り上げられました。
ご指導の八尋和美先生は、作陽音楽大学で教鞭をとっておられたのですが、その大学所属の室内合唱団が八尋先生の指導の下、モーツァルトのミサ曲全曲演奏プロジェクトをしていることを強く羨ましく思ったものです。

その後ウィーンに行く26歳までに日本で歌ったオーストリアの宗教作品は、モーツァルトの戴冠ミサ、ヴェスペレ、ハ短調ミサ、ハイドンの四季、ベートーヴェンのミサソレムニスのわずか5曲でしたが、オーストリアでは多くの宗教作品に出会う事になり、その数に驚きました。
既出のモーツァルト、ハイドン、ベートーヴェンに加え、ミヒャエル・ハイドン、サリエリ、シューベルト、ブルックナー、さらにはフクスやカルダーラ、レオポルド・モーツァルトなどのバロックの作曲家や、ディアベリ、チェルニー、スッペ、ビーバーなどの作曲家も宗教作品を多く残しています。

現在のウィーンでもミサの中で多く歌われているミサ曲はモーツァルト、ハイドン、シューベルトの3人の作品が圧倒的に多く、他の作曲家の作品は規模の大きさや作品の数が理由からか頻度はこの3人ほどではありません。
ウィーンに住んでいた期間は6年半でしたが、最も多かったミサ曲はやはりモーツァルトの戴冠ミサだったと思います。

どんな時に歌っていたかと言えば、復活祭などの特別な祝日には小さな教会も音楽を祝祭的にしたいという希望から、音楽家が必要になり、そんな時に声をかけてもらっていました。
少しずつ経験を積んでいき、また知り合いが増えていくと、大きな教会の聖歌隊からも声をかけてもらえるようになりました。

ウィーン郊外のクロースターノイブルク修道院や、ウィーンイエズス会教会などです。
毎週の日曜日に毎回違うミサ曲を演奏するイエズス会教会では、その準備は簡単ではありません。
そこで教会の聖歌隊にプロが加わるというシステムをとっていました。

いくら伝統ある聖歌隊といえどアマチュアが年間30〜40曲ものミサ曲を、水曜日に2時間の練習で日曜日本番をこなすのは場合によっては困難で(シューベルト変イ長調ミサなどの難曲もありました。)、常時助っ人としてお声がけいただけるようになって行きます。
私がそのお仕事を楽しそうにしていたことを評価していただけたのかもしれません。
楽譜は練習場に用意されているのですが、必ず事前に楽譜屋さんで購入して稽古に行っていました。

しばらくすると時々ソリストや、団内での発声指導、全体指導を任せていただくこともあり、メンバーたちともとても仲良くなっていきました。
カペルマイスターであるピクスナー氏を中心にとても雰囲気の良い団体でしたし、団員の何人かとは音楽活動以外でも会うようになったりと、どっぷりその世界を楽しんだように思います。
日曜日のミサそのものも好きだったし、個人的には2011年に洗礼を受けたこともあり、教会での音楽活動は充実していました。

ところが!あんなにも出入りしていたイエズス会教会の中の小聖堂に掲げてあった”日本におけるイエズス会士”という絵を発見したのは、日本に帰国した後だったのです!
その絵には、長崎で殉教した26聖人のうちイエズス会士3名が描かれており、長崎の海を絵の背景に見ることができます。

日本に帰国後も、初めて住む東京には知り合いも少なく、最初は仕事がなかったので、夏の音楽祭シーズンなどは最初の2年間は出稼ぎにヨーロッパに行っていました。
その時にやっとこの絵に出会うことになった訳です。

その絵を見ながら、東京で作れたら、と以前から考えていた合唱団のイメージが降りてきました。
長崎の、隠れキリシタンが歌い継いだ“オラショ”という名前をつけさせてもらい、この教会で歌った作品などを日本でも歌おう!という考えです。
正確には記憶していないのですが、2013年の秋のことだったと思います。

オーストリアの宗教作品だけを歌うというコンセプトにしたのは、他の国のミサ曲の風習や歌い方を詳しく知らなかったことも理由の一つですが、オーストリアだけに絞っても、多くの作品があることも理由の一つでした。
こうして第1回目の演奏会に向けて合唱団のメンバー募集の準備にかかります。
まず始めに準備したのは、長崎に出向き、“オラショ”の勉強をすることからでした。


つづく

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